1958年・昭和33年2月13日 | ||
「高松宮様とスキー倶楽部」 |
こちらは、スキー倶楽部のメンバーとの写真です。一番左の男性は、全日本スキー連盟会長小川勝次さんで、高松宮様には必ず随行しておられた方です。この頃のスキー靴は、ひもで縛るタイプです。 一番右が平田シナです。 高松宮殿下のスキー随行記より |
昭和37年03月21日 |
東京からのスキー客到着し、未明から騒々しくなった。九時三十分御出勤、高い処にはガスがかかっていて気温も暖かく、雪室は昨日以上に悪い。それでも三回も長い滑降をお楽しみになった。今日は女性の姿が多い。 十時御発、ジープで会津若松へと御成りになった。翁島あたりは湖岸に新道が出来上がり、坦々たる道を走る。殿下から、お若い頃、毎年夏になると此のあたりで水泳をお楽しみになった、という御想い出の一端を承った。強清水でにしんのてんぷらを召し上がり、十三時東山温泉向瀧(社長平田昇)御着。 御昼食後、ケーブルで背炙山スキー場へ御成りになった。ケーブルの終点から三十分近くも歩かねばならぬ上に、スキー場に着いたところ、今度は風が強いためスキーリフトは運転中止となっていて、処置なしという状態である。案外にも広いスキー場で、積雪も充分あるが、風の強いのが欠点らしく、スキーリフトの休止はよくあることらしい。猪苗代湖が眼下に眺められ、景色の良いスキー場であるが、スキー場ではお滑りにならず、三十分歩いて上ってきた道だけスキーでお下りになりケーブルで御下山され、向瀧にお帰りになった。 御夕食は会津若松市長横山武の招宴がありスキー関係者の余興もあった。 |
昭和37年03月22日 |
残雪の庭は寒々とし、室も寒かった。ゆっくりと九時半に御朝食をおとりになった。 十一時二十分向瀧御発、そして十一時四十二分会津若松駅御発、高橋と鈴木課長は郡山駅まで見送りしてくれ、十七時十分上野駅御着で御帰京となった。 計画を始めてから七年、西吾妻越えスキーツアーが成功しホッとした気持ちになる。 |