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西暦740年代の僧行基により発見されてからの東山温泉の名湯と向瀧 |
(建築史家:会津工業高校建築科教授)村越保寿 |
天寧寺の湯といわれていた東山温泉 東山温泉郷は草津、吉奈、山中、山代、蓮台寺と共に約1,200年前僧行基によって発見されたとする発見伝説に属する温泉である。それ以来数多い東北の温泉の中でも奥羽三楽境の一つに数えられる名湯として知られてきた。 旧藩政時代を通じて、この温泉にまつわる文献は極めて少なく昔は地元会津の人々が利用していた程度らしい。会津の俚謠に次のような歌があり、今でも歌い継がれている。「からす、からす、何処へ行く。天寧寺の湯さ行く。てにもったのはなあーに。あわごめ、こごめ。俺さ一寸呉れ無いか。…」 この天寧寺の湯というのは現在の東山温泉郷のことで藩政時代は天寧寺の湯で通っていた。向瀧の前身はこの当時「狐湯」と称し、会津藩士の保養所として営業していたという。このことは向瀧が数ある旅館の中で既に官選の指定を受けていたことを示している。明治6年になってこの旅館は初めて民営に移されることになり、以来平田家で代々営業することになった。 |
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明治・大正期の向瀧 向瀧は川向と呼ばれ前面は羽黒山と対峙する北面傾斜地に3,000坪の敷地を擁した風格のあるたたずまいである。幸いなことに当時を偲ぶ写真二葉がこの旅館に残されている。 明治期の写真では東橋袂よりやや後退した位置に奇棟瓦屋根の主屋が建っているが、 大正2年頃の写真ではほぼ現状に近い位置に主屋が移っている。この大正期の主屋こそ現在の本館の母胎となったことは想像に難しくない。おそらくこの大正期の建物は明治時代のものの移築ではなく新築であったと思われる。この大正期の建物の改築を手掛けたのが、地元会津若松の棟梁本間辰五郎であった。同時期に本館の離れ座敷もこのとき完成した。この時期に離れが同時に建てられたのは、この旅館が東山温泉旅館の中でただ1つ宮内省より指定を受けていたからであったという。藩政時代藩士の保養所として指定されていた事情を併せて考慮すれば十分うなずけることである。書院造りの手法を厳格に守った造作は当館随一のものである。 | |
地元棟梁の敏腕が現われた本館の改装 本館は赤瓦葺入母屋根で玄関の入母屋と共に破風の線が極めて優雅で懸魚の彫刻も素晴らしくよいバランスが取れている。棟梁本間辰五郎の胸中には大正期の主屋のイメージを壊さずに、これを基調としてやや寺院風の演出をねらった意図が覗われるが、全体としてよく纏まり成功したものと言えよう。この本館こそ向瀧の象徴そのものであるが、造形的に重厚に墜ちずシットリとした印象を与えるのは1・2階の開口部の取扱と外部簓子下見板の化粧のせいによるものであろう。本間辰五郎の敏腕を高く評価したい。 本館2階の 大広間に同じ棟梁の手になる造作であるが、大謄に格天井を取り入れた室内空間は、木割も太く材料の精選と相俟って、この旅館の代表的な普請である。 |
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関東技術と地方技術とが融合向瀧の全容完成 本格的な増築をみたのは昭和10年以降で、この時期に今日の向瀧の全容が完成した。東京より棟梁を呼び寄せて一気に西館、別館の普請を進行させたのである。地形的に湯川に急斜面で落ち込む懸崖の傾斜地に逆らわず、本館西側に大きく池を取り入れた庭園をとり凹状に西館と別館を計画した。この計画は全容的に均整の取れた配置であり大まかに云ってシンメトリーの配置と云ってよいであろう。東京の棟梁の名は福岡武男(その当時東京でもかなり腕のいい職人が集められたらしい)であるが、会津に伝統的な江戸工匠技術を導入したことは疑いのないところで、配置、平面、立面計画にこの人が果たした役割は高く評価されてよい。 昭和10年頃と云えば戦色漸く濃くなる頃で、職人たちにとっては、手を抜くことを知らない執着心を十二分に発揮し得る時代であったここを花舞台として多くの職人が妍を競い、技量を誇ったことであろう。 | |
ここで展開された西館、別館はそれぞれ入母屋瓦葺屋根の連続棟で、地形的にそれぞれを階段廊下で梯状に結ぶという手法が採られている。しかも造作回りは純書院風(梅の間)を基調に数寄屋風を採り入れた各室(桐、竹、松等の各室)から構成されている。ところがこの昭和10年の大普請に地元職人が数多く参加して、それぞれに名工ぶりを発揮しているのに驚くのである。例えば「竹の間」の象徴である床脇の袖壁として嵌め込まれた竹の彫刻の桐の一枚板は地元職人阿部氏の傑作の一つであり、西館2階の「水仙、すみれ、百合の間」の建具は組子に糸面取りを施し乱に組み込んだ建具最高の技術を駆使しているが、これも地元建具職人矢仲喜代八(最高)の作である。 とすれば昭和10年の造営は江戸伝統の技術と地元建築職人文化の一大融合という形で遂行されたものといえる。 |
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増築の西館、別館の各棟には松、竹、桐等のように設計当初より各室名に見合う材料の選定が行われており、それぞれの室内仕上げを詳細にみればいかにも関東趣味が覗われ、地元会津では見られないバリエーションを見ることが出来る。桜の間を除いては、すべて数寄屋風で統一されているが、造作手法はいずれも堅実で会津気質好みを感じさせるものがある。この増築期に洋室2間が初めて採り入れられたが、これは当時会津若松城跡に隣接して、その威容を誇った陸軍第二十九連隊の将校用の宿泊のためであったという。この洋室は戦後進駐して来たアメリカ軍将校の宿舎として大いに利用されたということである。 従来会津の建築技術は伝統的に越後系統が主流をなしていた。希には関東系統の工匠が入った事例はあるが、越後系統には及ばなかった。この時期の大増築に関東系の棟梁を移入はしたが、すべてを関東職人で尽くすことは当時の社会情勢からみても無理なことであったであろう。当然地元職人を選りすぐって造営の参加を呼びかけたこともうなずける訳である。今日の向瀧の全容はこの世にして関東文化と地元会津文化の融合によって完成をみたのである。 |
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